当ブログ『気ままにMYシンプリシティー』では、写真の片付けや整理と収納のお話を、何度かしてきました。
卒業アルバムの全捨てからはじまって、団体の集合写真とか大判写真を処分。後は、ちょこちょこ捨て。
(とはいえ、けっこう処分が進みました『写真の断捨離してしまいました!家族もアッと驚いたアノ写真まで!』)
本当は、次に写真の断捨離をする時には「全部捨てちゃう」ことを目論んでいたのです。
でも、身の回りで様々な出来事が起こって、それによって考え方が変化していき、結局は「写真の全捨て」をすることは取りやめにしていました。
例えば、ある日の父との対話の中で、写真をとっておくことの大切さに気づかされたりしました。→『写真の断捨離について、歳をとったミニマリストが見たがる写真を選別する方法は!?』)
しかし、新型コロナウィルス予防のための自宅自粛が長くなってきてからというもの、書斎に籠っている時間も増えてきましたので、思いっきり紙モノ系のお片付けをしたくなってしまったのです。
写真のデジタル化で物理的な写真を減らす
まだ手元に残っていた写真たちは、大きめの靴箱くらいの箱が3つ、小さめの靴箱くらいの箱が2つ、それと乳幼児の頃のアルバムが2冊です。
全部の卒業アルバムをなんの躊躇もなく捨てたのに、赤ちゃんの頃のアルバムを断捨離できなかったのには理由がありました。
このアルバムには、母の手書きの文字が書かれていて、内容がなかなか面白いので捨てがたかったから。
「母の手書きの文字ごととっておけるといいのにな」、と常日頃から思っていたのですが、なんとその思いが叶って、文字ごと写真もとっておけるサービスと出会いました。
詳しくは、改めて別の記事でご紹介しますね。
アルバムに丁寧に貼られた写真の横に添えられた母の手書き文字と、バラの写真、などを全てスキャニングしてデジタル化し、それらをファイルごとに納めてくれる、なんともありがたいサービスなのです。これを利用することに決めました。
が、しかし...
「デジタル化」 = 「写真が減る」
これって、合っている?間違ってる?
私自身は、「デジタル化すれば写真が減って、シンプルライフ化が進む」、とは思っていません。その事に気づいたのは、デジタル化のために写真を整理し始めてからなんです。
写真がデジタル化された後、紙の写真は再び手元に戻ってきます
デジタル化するにあたって、写真を仕分けしなくてはなりません。
ぐしゃぐしゃになった写真をまとめてドバッと送ってしまったら、作業をしてくださる方々が、ファイルごとに分けられませんよね。
デジタル化した後に、見たい時に見たい写真をすぐに見れるようにするためには、デジタル化する前にきちんとカテゴリー分けを終わらせておく必要があるのです。
私の場合は年代別に写真を分けました。そして、ファイル名は西暦にしました。
写真の整理をしていて、ふとある言葉が頭をよぎりました。「ほんとうにコレ全部必要なの??」って!
もうすぐ死んでしまうかもしれないし、あと60年以上生きるかもしれない。いずれにしても、未来の私はこの写真たちを全て所持していたいの?と、自問自答を繰り返していました。
そして、でてきた答えは「NO」。
とりあえず全部まとめてデジタル化しちゃえば簡単かもしれません。
しかしセミアは、脳内というか頭の中のシンプリシティーを望んでいるわけですから、それはできないのです。
私にとって紙の写真も、デジタルの写真も、どちらも同じで「所持してる」ことになるのです。
少なくとも、特に気に入ってる訳でもなく、二度と見ないような写真は、事前に捨てることにしました。
それから、似たようなショットはどちらか一枚のみ残す、風景の写真は手放す、というルールを決めてそれらも断捨離しました。
手放した写真はかなり大量になり、結局は靴箱2つ分ほどの写真が、デジタル化前に断捨離となりました。
デジタル化のあと、紙の写真をどうするか問題
大量の写真を事前に処分したとはいえ、残った「デジタル化する写真」は、いっぱいあります。それだけ大量にあったってことですね。
デジタル化してもらったあと、紙の写真は返却されてきますが、その時に「どうするか!?」を、再び決断していかなくてはなりません。全捨てはしないからです。
冒頭にリンクをつけた記事にも書いたように、歳をとってから写真を見た時に「元気がでる写真」 「勇気が出てエネルギッシュになる写真」 「自分を誇りに思えるような写真」、これらを基準にして、紙の写真を数枚だけとっておく予定です。
今回の、写真の片付けと整理では、デジタル化という新しい試みをします。
先日、カテゴリー分けを終え各袋に入れた状態で、段ボール箱に詰めて発送したばかり。
出来上がってきたら、デジタル化の段取りとか、感想とか、詳しくお話しますね。出来上がりが楽しみで仕方がありません。